昭和四十五年七月一日 朝の御理解


御神訓 一、過ぎたることを思い出して腹立て苦をすなよ。


  例えば、あの時の事を思うただけでも腹が立つ、と云ったような事がありますねえ。だからそういう事も勿論ですけれども、ここで頂かなければならないところは、過ぎたる事を思い出して腹立て苦をするなよという事は腹立てるという事はもうおかげが受けられないという事ですよねえ。『腹立てば心の鏡の曇る事』とおっしゃるように、心が曇るから影が映らんのです。ですからこれは腹立てという意味だけではなくて、おかげの受けられないあらゆる心だと思いますね。
  例えば寂しい思いをするとか、思い出しただけで心が暗くなるとか、思い出しただけで自分の過去というものを本当にあの時あげな御無礼な事させて頂いておった。信心のない時とは云いながらああ云う浅ましい事をやってのけてきたがと時々自分の良心の    に苦しむ時がありますよね。そしてこういう難儀な事になったりすると、あげな事があったけんこういう事になるとじゃなかろうかと思うような事がありますけれどもね、私はそういう事がないようにと・・・・・
  だからそういう忌わしいと云うか、いわば思い出しただけでも腹が立つといったような問題が過去に於いてあった事のおかげでね、現在このようなおかげを頂いておるという事になると、過去の腹の立つような問題とか、思い出しても心を汚すような事柄がね、かすって生き生きとしたおかげを頂く元になる。
  今朝、御神願で頂く事が、けさ御前という戦場である強いお侍に助けられておるのですが、だからそれに恩をきせて夫があるのにもかかわらず、けさに横 心 慕する訳です。それにもう引くに引かれないといったような、断るにも断れないと云った事で・・・そんならね、自分の主人がおっては一緒になれないから自分の主人をね亡き者にしてくれと頼む訳です。そして今晩あの部屋に主人がやすんでおるから忍んで行ってくれと云う訳です。それでその侍は闇にまぎれて忍び込んで布団の上からそれを刺し殺して、悲鳴を聞いてびっくりした事は男ではなくて女であった。いわゆる自分が好きで好きでたまらんそのけさだったという事なんですよ。そこからね、その人が、私名前はちょっと忘れましたけれども偉いお坊さんになられたんですよね。そういう忌わしい事が原因なんですけれども、その時に一心発起が出来た訳なんです。そして罪ほろぼしと思われたんでしょうねえ、頭を丸めて坊さんになられて大変なお徳を受けられましてね、そして人が助かるようなおかげを頂かれた。そこの所を今日はね、御理解に「まず我が身におかげを受けて後に人を助けてやれ」というのがありますでしょう。自分が助かるという事はどういう事かと云うと、過去の全てがね、信心によって生かされてきたというところにその人の助かりがある。もうあの時あげな事がなかったらこげな目にあわんでんよかばってんというのではなくて、あん時にああいう事であったおかげで、例えば私共で云うならば、裸で引き揚げて帰ってきてもうそれこそ食べるに食がない、着るのに着物がないといったようなところを通らせて頂いたおかげで一心に信心が出来た。そしたらこういう風に人が助かるようになってきたという訳でしょう。だから信心とは過去の全てを生かす事の出来れる道を教えて頂くのですよね。過去の全てが生きてくるから、これからとても生きてくる訳です。これかはなおさらの事。その全ての事を生かしていけれる道を過去、現在、未来までもそういう事が続いていこうというのが、信心であり信心の道だと思う。
  私は今朝、しろしろのがまというのがおる。これはこう薬売りが、昔、ガマの油売りのセリフの中にあのがまを四角四面の鏡の中に入れると云うのです。そうするとそのがまがね、もうどちらを見ても自分の姿が映る、その姿の見苦しさにもうそれこそ汗をダラダラ流しながらね、自分の姿の見苦しさを苦しむという訳です。そういう事を頂いておった。そして今日の御理解だったんです。
  信心とは、だから教えの鏡というものを横縦十文字からあらゆる角度から自分という者を見極めるという事なんですよ。だから人を見るのじゃない、自分自身を見極める。だからまあ自分のごたるとを主人が家内と云うてくれるという事になるのですよ。それでも私が働いていっておるから、ああたが食べられるとですよ、と云ったような思い上がりというのは、さらさら勿体のうして云われん。私がごたるとをようも主人がという事になってくる訳です。結局自分自身が、がまの見苦しさをね、鏡の中でもう本当にいやというほど感じさせて頂くところからだらりだらりと汗を流したのを煮つめたのが、あのこう薬。あのこう薬がもうそれこそ切り傷にはたちどころにようなるというほどしの薬が出来るように、今私が申します、まず我が身におかげを受けて人を助けてやれという事はね、まず自分自身が助かるという事は自分自身の油汗を出すという事だと思うのです。だから信心によってそういうおかげを受ける訳ですが、本当に「見る事見る事、自分を見る事」もう人を見るな、自分を見れと自分の心の中を見てみよ。そこからね本当に相済まない私という事が、いわゆる自分の実体というものを見る事が出来る。そこから、これではならんと云うて本気で改まる事にも、又は研かせて頂く事にも本当に世のお役に立たして頂く事にも、精進させて頂くところからいわゆる生き方というものが回れ右された程しにかわってくる訳です。そこから私は思いもかけないおかげの展開というものがある訳なのですよね。
  今日は七月一日、今日の一時から夏期信行、夏の修行がある訳ですよね。人間というのは寒いと縮こまる訳です。暑いとだらっとなる訳です。今朝、今日の昼の事をお願いさせてもらいよったらね、大きなはまぐりを頂くのですよ。それがそのはまぐりが身をこう出してねだらーっと身を出してるところを頂くのですよ。ところがそれを誰かがポンと叩くところを頂くのです。そしたらパーッと縮こまってしまってね、固くなったところを頂くのですよ。というように夏の修行はお互いが暑いからやっぱりダラッとなりがちなのです。それを例えば暑い盛りにね一生懸命腹の底からね、しぼるようにして御祈念の修行させて頂く事によってシャンとする、そういう願いの元に今日からの修行をさせて頂く訳です。どうぞ。(やはり、信心させて頂いて身が引き締まるとか、シャンとするというものがなかったら信心の値打ちはありませんよ。ところが只願っただけでもおかげ受けますけれども、それでは只おかげ頂いただけで自分自身の徳にはひとつもなっておりません。)
  本日の御理解は機械故障のため、後でダイジェストして頂いたものです。不行き届きで相済みません。